2026.03.01

『ダブル・ファンタジー』村山由佳

読者の倫理観を揺さぶりながら、欲望と承認の迷路へと引きずり込む危険な小説です。主人公・奈津は、転がり落ちるような人生の只中で、「自分を引き上げてくれる男」を探し続ける。恋愛体質という言葉では足りないほど、愛情・快楽・承認欲求の境界が曖昧になり、誰かに愛されている自分、必要とされている自分を確認するために、男たちとの関係へと身を投じていきます。
本作で特に印象的なのは、奈津が男たちをセックスの相性や技量で容赦なく評価する視線です。素晴らしい体験としてのセックスと、くだらない体験としてのセックス。その落差の表現は残酷で、時に読む側がたじろぐほど露骨です。くだらないセックスをする男への蔑みは、読者に不快感すら与えます。その不快さこそが奈津の空虚さと切実さを際立たせ、作品の強烈な読み味を形づくっています。
物語には、自由な恋愛、自由なセックス、自由な仕事が描かれています。しかしその自由は、都会的な自立した女性像への憧れにも見える一方で、欲望に流され続ける漂流者の姿にも重なります。嘘をついて外泊し、劇作家と関係を持った時点ではまだ罪悪感があるが、物語が進むにつれ奈津の中から倫理が薄れ、どんな男と寝ても罪悪感が消えていく。その過程に読者も巻き込まれ、気づけば倫理の基準が揺らぎます。小説として非常に危険でありながらも、目を離せなくなります。
「よくここまで書いたな」と思わず唸ってしまいます。性、承認、自由、破滅。これらを真正面から描き切った本作は、読者の価値観を揺さぶる力を持つ一冊です。

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2026.02.23

『滔々と紅』志坂圭

吉原という場所に来る女性がいかに過酷な人生を歩んできたか、吉原という場所でもどれほど過酷な人生を歩んでいるのかが胸に迫ってくる小説です。遊女たちは日々、死と隣り合わせで生きていて、生きていること自体がすでに地獄のよう。その重さを描くために、作者が当時の遊女の生活や制度を丁寧に調べたのだろうということは、作品の細部からしっかりと伝わってきます。歴史的な背景の描写は細かく、吉原の空気がひんやりと肌に触れるような臨場感がありました。
ただ、その綿密さが必ずしも物語の魅力に結びついていないようにも感じました。説明が前に出すぎてしまう場面では、登場人物の感情がふっと遠ざかってしまい、文学作品としての情緒が薄れてしまうのが少し残念でした。物語の流れよりも知識の提示が優先されているように見える瞬間があり、せっかくの題材が持つ哀しみや切実さが、説明の層に覆われてしまっているように思います。
また、登場人物の役割や配置の重なりが不自然で、物語の構造がやや稚拙に感じられました。印象を深める目的での意図的な重なりなのでしょうが、読み手としては少しわざとらしさが気になり、ストーリーの説得力を弱めてしまっていると受け止めてしまいます。わざとらしい偶然性をいかに排除しつつストーリー性を高めるかについては、さらなる工夫をするために時間を割いてもよかったのではと思います。そうすれば、物語性はより厚くなります。
遊女たちが抱える仕事の辛さ、そこから逃れたいという切実な願い、何かに縋らずにはいられない心の揺らぎ、そして信仰へと逃避していく心理――これらは本来、とても強い文学的テーマです。作品の中でしっかりと描かれている部分です。だからこそ、説明ではなく物語として、もっと胸に迫る形で描かれていたらと、どうしても惜しさが残ってしまいました。
それでも、吉原という世界の暗さと重さを真正面から描こうとした姿勢には、強い意志を感じます。資料性と物語性のあいだで揺れながらも、作者が見つめようとした「地獄の中で生きる女たち」の姿は、読み手に静かな問いを投げかけてくるようでした。もう少し情緒の余白があれば、さらに心に残る作品になったのではないかと感じつつ、読み終えました。

滔々と紅 - ディスカヴァー・トウェンティワン

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『新生』島崎藤村

姪と関係を持ち子を産ませ、自分はフランスに3年間逃げるという、かなり酷い男の話です。大正時代初期の話であり出身の名家の汚点ともなる事柄を勝手に私小説として発表してしまうという、ペンの刃を自身に向けるようなことも行っていて、そのことも後編には描かれているので、その衝撃は大きなものです。
自らの悪事とその内面を表現していいものか、表現するならどのように表現するのか。この小説のような書き方がベストだったとは言い難いと思います。関係を持った姪として描かれる節子は実在の人物が存在し小説に書かれた関係を実際に持っているわけで、その後の人生の大きな枷となることが想像されます。したこと、書いたこと、どちらをとっても藤村を擁護する要素は見つかりません。それは藤村自身も承知の上で、それでも書くことから逃れられない苦悩も含めて書き綴っていることから、書かれている心情も複雑だし、読後感も複雑になります。
この小説は新聞小説として発表されたとのこと。新聞の小説は娯楽のように思っているのですが、実際の人生を読み手はどのように捉えたのでしょうか。

青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000158/files/843_14595.html

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2026.01.25

『ゼロから分かる!ジャズ入門 知れば知るほど、面白い』後藤雅洋

Kindle unlimitedにあったジャズの本です。ジャズは僕にとっては(おおよその人にとっては)娯楽音楽なので演奏でもしない限り入門なんてしなくてもいいのですが、それでも入門本を読んでみるのはいいかも、とダウンロードして読んでみました。

本書は、歴史、スタイル、代表的な演奏者の3軸をそれぞれに分けて、区分ごとの説明と代表曲を紹介しています。紹介された個別の曲は本なんか読んでいる場合ではなく聴かなければわからないのですが、何を聴けばいいのかという羅針盤を3軸も持つことで、ジャズを理解しやすくしてくれます。

スタイルによる区分も従来は気にしたことがなかったし、入門本をパラパラと捲っただけでもしらない演奏者がたくさんだなと言う印象です。紹介されているジャズスタンダード25曲ですら、知らない曲ばかりだ!やはり時系列が頭の整理になります。ここで整理された軸を気にしながらジャズを聴くことで、新たな発見がありそうです。

幸い、いまは音楽サブスクの時代。いろんな音楽を試しに聞いてみるのにはいい環境ですね。

世界文化社
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2026.01.14

登戸研究所

明治大学の隅にひっそり立つ「登戸研究所」。陸軍の秘密研究所跡地に、徹夜明け仮眠後の午後に訪れました。
生田駅から線路海側を遊園方面に歩いたところに明治大学生田キャンパスがあります。敷地に入り坂道を登ったところに小さな神社があります。陸軍登戸研究所(第九陸軍技術研究所)が建立した弥心神社(生田神社)です。昭和18年陸軍大臣の表彰金で建立されたとか。
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明治大学生田キャンパスのいちばん右奥(南西)に登戸研究所資料館があります。ただ「登戸研究所」はこの資料館として残されている建物だけではなく明治大学生田キャンパスとなっている広大な敷地全体に広がっていて、多くの木造建築物といくつかのコンクリート製建築物からなっており、資料館となっているのはそのうち保存されている建物のひとつにすぎません。
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この建物は明治大学が入手してから長いあいだ農学部の研究棟として使用されていましたが、戦争遺構の保存の目的で登戸研究所時代の間取りを復元し展示施設に改装しています。ただ、実際にこの建物がどのように使われていたか、詳しいことがわかっていないことも多いのが事実です。行ったときは、学生さんにガイドをして頂けました。まず、最初のビデオ。登戸研究所では戦争犯罪に関わる秘密の研究がなされていたこと、ここで働く人は厳しい箝口令が敷かれていたことを教わります。
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登戸研究所のイメージは、風船爆弾。紙張りの風船に爆弾をぶら下げて太平洋に飛ばしアメリカで着弾して爆発することを目指すというもの。荒唐無稽な計画だと思っていたのですが、実際には打ち上げ10,000発中1,000発くらいがアメリカ・カナダに着弾していると言うから意外と現実的な攻撃方法だったようです。アメリカでも混乱にならないよう報道規制が敷かれたいたというから、なかなか効果があったみたいです。偏西風、ジェット気流も研究されていて、温度による高度調整装置も付いているという意外にも高性能なものでした。貼る和紙も破れにくく弾力性があるように加工された高度なものです。登戸研究所に通う女学生が厳しい労働環境のもと作りました。
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(写真は風船爆弾10分の1模型)
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展示を見ていると、登戸研究所のメインは偽札の作成だったようです。蒋介石政権が発行した共通紙幣の偽札。しかし、日本との戦争が進むにつれ極端なインフレとなり、偽札が狙った経済混乱は埋もれてしまったようです。
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何に使われたのかよくわからない、暗室。扉の他にクランク通路があり、扉を閉めるとクランク通路を確保しつつ室内が真っ暗になる構造になっています。大きな流しがあるところをみると写真現像の暗室にも思えますが、この建物そのものは生化学兵器開発の研究所だったらしいので、本当のところは何なのでしょうか。なお、写真奥のランプの意味も不明で、これは陸軍登戸研究所が付けたものか、慶應義塾が付けたものか、明治大学が付けたものかもわからないそうです。
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登戸研究所は終戦直前の疎開で長野県駒ヶ根に疎開していたそう。その駒ヶ根に保存されていたのが石井式濾水器。アルミ珪藻土を巻いた筒をカートリッジとして機械に6本取り付け回転させて濾過させるもの。機械の中心にはブラシが付いていて、珪藻土の目詰まりを掃除する機能もあります。
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最後に見せていただいたのが、通称「弾薬庫」。ただし、登戸研究所当時に何に使われていたのかはわかりません。登戸研究所は大規模施設にも関わらず証言者が少なく、こんなことですらわかっていないのです。戦争の闇の深さを感じます。この「弾薬庫」も徐々に崩落が始まっていて危険なので、見物者は中に入ることができないほど。用途がわからないまま、戦争遺構が消滅してしまいそうで残念です。
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明治大学平和教育登戸研究所資料館

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2026.01.04

『江戸東京の坂道 凹凸から読み解く都市の成り立ち』 岡本哲志

東京には坂道が多いです。その坂道と周辺の街の歴史をなかなか細かく説明してくれている本です。

たくさんの坂道をただ説明しただけでは、なかなか理解が難しいです。この本では、武蔵野台地のうち江戸に該当するエリアを7つの台地と定義しています。7つの台地は「上野台地」「本郷台地」「小石川・目白台地」「牛込台地」「四谷・麹町台地」「赤坂・麻布台地」「芝・白金台地」です。、それぞれの台地に取り付く坂道をまとめて説明することで、理解しやすい工夫がされています。

江戸は江戸開府以降に大規模開発されたことで、江戸時代以降の文献はそこそこ充実しているのですが、戦国時代までのこの地域に関する文献は少ないのですね。中世までの江戸の地形は、想像するしかないのが残念です。特に、紅葉川と神田山。こんな市街地で、大規模な流路変更工事が人力で行われたのも驚きですし、そんな大規模工事の前の地形が想像するしかないという記録のなさにも驚きです。古に神田山があったことを想像しながら、水道橋から御茶ノ水までを歩いてみたいなと思わせます。

台地ごとの武家屋敷の区切りと歴史、その歴史に坂道が備わっているのです。人々が何の目的で坂道を通し、何を思いながら登り降りしたか。消えてしまった坂道も多いですが、それらの坂道まで思いを馳せて、東京を歩きたいです。

学芸出版社

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2025.12.31

『原色の街・驟雨』吉行淳之介

4編の短編小説が収められています。

原色の街
墨田区の赤線街の娼館に身を置く主人公あけみの物語。自ら望んで娼館に身を置いた矜持を持っているものの、選んだ居場所に確信が持てず心が浮遊する。客に恋愛感情を持たず性感も感ずることなく娼婦の仕事を淡々とこなしているうちは、何でもない日々である。しかし、密室で肌を合わせるという危険な行為は心に直接作用する。何に寄り添い、何から逃げるべきか。もどかしいほどに、揺れる。

驟雨
原色の街に続いて娼婦との物語。原色の街では客の男が娼婦の心をコントロールしている書き方だったが、驟雨では娼婦が客の心をコントロールしている。多くの恋を持つ娼婦への嫉妬と孤独に押されながら茹で蟹を食う。突然の雨に、ゆっくりと世界は崩壊していく。

夏の休暇
母を家に残して、父と父の愛人と旅行に行く短編。そんな艶かしいシチュエーションは子どもにとって退屈なもの。しかしうすうす感じる破滅的なシチュエーションは、強烈な印象を子どもの心に刻みます。。

漂う部屋
結核病棟、死に至る可能性がある病を患い世間から隔絶された人間たちの物語。実際には、死ぬ者もいれば、死からは遠い者、社会復帰の見込みがある者ない者、手術前手術後、様々な人間が隔絶された世界に詰め込まれている。束の間の人間関係だが重い人間関係の形成となる。その中で人間観察をし、自分自身はどのように振る舞うかを考える時間でした。

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『ITILはじめの一歩』最上千佳子

ITIL初心者向けに、ITILの考え方はどのようなものかを簡潔にわかりやすく説明した入門書です。ITILの中身を学ぶ前に、そもそもITILとは何かという疑問に答える本です。今まで、ITILとはシステム運用の標準テキストのようなものだと思っていました。実際には、戦略や設計についても分野として取り扱っているのですね。戦略分野はまさにITストラテジストが取り扱うべき分野です。
本書の前半は八百屋、旅館などの仮想事例の物語。少し茶番劇の感じがありますが、後半で解説があるITILの各分野で何を解決しようとしているのか、理解が大いに進む構成となっています。
翔泳社サイト
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2025.12.29

『汝、星のごとく』凪良ゆう

audiobookで聴いた本です。家庭環境に恵まれない同士の男女高校生がそれぞれ30歳代になるまでの物語。親の恋愛に不満を持ちながら、自らの恋愛には不器用に年月を過ごしてゆく。もどかしさを感じながら読み進めることになります。社会的な成功と停滞の差が、そのまま心の距離感になるのだろうか。この距離は克服するのか。だからといって生きていかなければならない。その時の男女の関係のあり方は。世間の目に囚われない、自分が幸せと感じる生き方と関係を見出したい。

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2025.12.27

『将棋と小説』小説現代2024年11月号

特集タイトルに惹かれて手に取った文芸雑誌ですが、1年以上も積読になっていました。その間に、表紙の渡辺明九段も休場しちゃっていますね。

将棋を題材にした、さまざまな著者による短編小説が8篇、収められています。

ふだん将棋ファン(見る将)が観戦する対局はプロのもの。プロの将棋も一局一局が重くドラマがあるものですが、人生に対する一局の重さとしては三段リーグに勝るものはありません。その三段リーグに、さらに人生の事件を掛け合わせたのが、将棋小説というものでしょうか。僕は(ほとんどの人は)この一手に人生が懸かっているという状況は避けて生きているからこそ、こういうドラマ性のあるスリリングな対局を、小説で楽しんでしまいます。

小説現代 講談社tree

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