Google経営者による、インターネットの歴史観というか、インターネットの世界への影響の考察というか、そういう内容の随筆です。
ネットの利便性→ネットにおけるアイデンティティ→ネットvs国家→ネットとテロ→…という具合に考察が進んで行きます。
この本を読み始めて最初のほう、第2章「アイデンティティ、報道、プライバシーの未来」の序文で次のような記述があります。
フェイスブック、ツイッター、グーグルプラス、ネットフリックス、ニューヨークタイムズ電子版など、あなたのもっているアカウントのすべてが、あなたの「公式プロフィール」に紐づけされたら、いったいどうなるか想像してほしい。検索結果のうち、認証ずみのオンラインプロフィールと結びつけられた情報は、未認証のコンテンツよりも上位に表示される。その結果、上位の(認証ずみの)結果がクリックされやすくなるかもしれない。となると、匿名でいることの真の代償は、「疎外されること」だろう。どんなに魅力的なコンテンツでも、匿名のプロフィールと紐づけされていれば、検索結果のランキングが低くなりすぎて、視界に入らなくなる。
ここで、オンライン上での匿名と実名の是非を比較する議論に入ればいいのですが、この章ではオンライン上のプロフィールは実名であることを前提に、実名プロフィールで困ったことをどう解決するかの議論に入っています。なんだよ、議論がすっ飛んでんじゃないか…と思うのですが、Google+アカウントを押し売りしてくるGoogle社の感覚が事前にわかっていたので、仕方ないかな。
僕の感じている実名限定のオンライン社会は「Facebook」で、ここは「2ちゃんねる」や「Twitter」に比べてよそよそしくつまらない場所になってしまっています。正直、そんなSNSなら娯楽としてのネットの用を果たしていないと思います。
匿名の2ちゃんねるや、半匿名のTwitterでは、比較的自分の思っていることをネットに吐露することができます。しかし、実名プロフィールに紐づけられたIDでのネット書き込みは、何らかの根回しがないと思想的なことを記載してはならないというのが、僕が思っているネットのマナーだったりします。娯楽に根回しは勘弁してほしいです。
本書の後半では「革命」「テロ」「戦争」が取り上げられていますが、これらは実は非常に似通ったもので、一つの事象に対していろんな視点によって革命だったりテロだったり戦争だったりに見えるものだと思います。その視点ってのは思想に密接に関係しているものだし、SNSのアカウントが実名なら思想傾向も簡単に政府や反政府組織に補足されてしまうと思うのです。そして、敵対思想の持ち主が迫害されないとも限らない…と考えると、実名と切り話したアカウントでのネット活動こそが民主的だろうと、個人的に思うのです。
なんだかんだと、結局Googleの考え方がよりいっそう嫌いになってしまった一冊でした。でも、Googleはネットの社会を制覇しており、Googleに依存しなければネットの利便性を享受できない自分が残念に思ってしまうのです。