伝えたいんだけど面と向かっては言えないこと。特殊な性癖に関わることなら、よけいにそうである。谷崎潤一郎の『鍵』は、熟年夫婦の往復書簡である。鍵を掛けた書棚にしまい込んだ日記という体裁を取りながら、相手に向けて記し続ける。現代ならSNSでもこのようなやりとりがあるかもしれません。特定の誰かに気づいてほしい、ツイッターの投稿に思い当たるものはありませんか。本書では、この隠し具合が、絶妙である。私はあなたの日記を読んではいないんだけど、日記を付けていることは知っているわと、こっそり日記に隠す。そして、読者は両方の日記を読むことになる。日記の暴露はひどい未来になるかもしれないし、実は既に読まれているのかもしれない。そんなどきどき感を、小説の読者は味わうことができます。
夫婦の間に登場する木村という男が、絶妙な立ち位置です。利用されているだけなのか、夫婦の葛藤を利用して成果を得るのか。いったい、大阪の家では何が繰り広げられているのか。
しかし、谷崎潤一郎の性癖の描き方はエグい。フェティシズムの権化みたいな人ですね。文才のあるエロ作家ほどたちの悪いものはありません。

感想を生成AIにも書いてもらいました。
谷崎潤一郎の小説『鍵』は、夫婦の秘密と欲望が綴られた二冊の日記を通して、愛と嫉妬、そしてエロティシズムを描いた作品です。物語が進むにつれて、登場人物たちの日記は単なる私的な記録ではなく、相手に「読ませるため」のものへと変化していきます。この構造は、現代のSNSにおける発信の在り方と深く重なるものがあると感じました。
SNSは一見、個人の本音や日常を気軽に発信できるツールのように見えますが、そこには常に「誰かに見られることを意識した自己演出」が存在しています。自分の感情や考えを正直に吐き出しているようでいて、実際には「どう見られるか」「どう評価されるか」という視点が無意識に入り込みます。『鍵』の中で、夫も妻も、日記に本音を書いているふりをしながら、実は相手の反応を計算して内容を操作しています。このように、本音のように見えるものが実は「演出された本音」である点で、日記とSNSは非常に似ています。
さらに興味深いのは、エロティシズムの表現における共通性です。『鍵』では、夫が妻の若々しい体を写真に撮ることで欲望を表現し、また妻も夫に自らの性的魅力を見せつけながら、別の男性との関係をほのめかすことで刺激を与えます。性的な欲望が、言葉だけでなく視覚的・間接的に表現され、互いを試す道具として機能しています。
これは現代のSNS、特にInstagramやX(旧Twitter)などでの「露出」や「セクシャルな自己表現」とも通じるものがあります。セクシーな写真や意味深な文章を投稿することによって、自分の魅力を示し、誰かの反応を引き出す――それは必ずしもストレートな告白ではなく、「見せつつ隠す」という倒錯的な欲望の形です。『鍵』の世界と同様に、現代のSNSでもエロティシズムは直接的ではなく、あくまで演出された形で漂っています。
また、SNSの投稿も『鍵』の日記と同様、「誰かに読まれること」を前提としているため、本音や性の表現は常に曖昧で、真実と虚構の境界が揺らいでいます。それがかえって想像力を刺激し、人間関係を複雑にしていくところも共通しています。
『鍵』は、個人の内面の奥深さと、人に見せる言葉の不確かさを巧みに描いた作品でした。そしてそれは、SNS時代を生きる私たちが直面している問題――自己表現の二面性や、欲望のコントロール――とも強く結びついています。日記もSNSも、一見すると「自分を語る」手段ですが、実際には「他者に見せる自分」を作る装置なのかもしれません。『鍵』を読んだことで、私たちが日々触れているSNSの投稿にも、より深い意味や意図が隠されているのではないかと考えるようになりました。

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