カテゴリー「散歩(徒歩)」の244件の記事

2026.05.21

富山県文学史

富山県の文学館で主要なのは「富山県立高志の国文学館」と「高岡市万葉歴史館」でしょうか。高志の国とは、越前、加賀、能登、越中、越後(現在の福井県、石川県、富山県、新潟県)の大化の改新頃までの地域名でとても広大な地域を指しますが、高志の国文学館は富山県立博物館であり、取り上げるのも富山県です。
富山県の文学史で非常に重要な地位を占めるのが、奈良時代の歌人である大伴家持です。万葉集に非常に多くの和歌を残す歌人なのですが、その多くが越中国司として伏木に赴任した5年間の和歌。そのため、越中文学と大伴家持を切り離すことはできません。しかし、古代から近世にかけて、大伴家持以外に越中の文学が発展しなかったことも、高志の国文学館、万葉歴史館の展示の裏返しとして知ることになります。翌々考えたら、日本の古典文学のほとんどは京都で作られ、近世もほとんどが江戸か上方で作られたものなのですね。地方都市の文学史は難しいものがあります。大伴家持は奈良から突如現れたスーパースターなわけです。
近代になると、富山県出身の作家が現れます。しかし、富山県ゆかりの作家が富山在住のまま創作活動をしたわけでなく、東京に移住して創作活動を行っている事実もあります。まだ、地方都市からの文学発信は難しいのでしょうか。文学館の館長を務める室井滋さんも、滑川出身東京在住ですね。
私の故郷(兵庫県伊丹市中野)の郷土作家と思っていた宮本輝が郷土作家として高志の国文学館で展示してあることに驚き、そのあと納得しました。旅の行先に富山を選んだのは宮本輝『潮音』で越中富山の売薬人が描かれていたからですし、螢川の舞台も富山。文学館の説明を見ると、宮本輝は神戸出身であるものの小学生の一時期を富山で暮らしていて、富山ゆかりの作家なんですね。

高志の国文学館は旧富山県知事公舎跡地の博物館。庭も美しい。
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高岡市万葉資料館は伏木の勝興寺から少し山側に入った伏木を見渡せる丘の上にあります。
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2026.05.06

越中八尾

八尾は「やつお」と読みます。飛騨地方から富山県南部に続く山地の北の縁に位置し、いくつもの川が合流して井田川が大きな流れになる所の近くです。井田川の氾濫原でなく、一段上がった河岸段丘上に市街地が形成されているのが特徴です。付近の井田川の標高が70から80メートル、八尾旧市街の標高が95から115メートルくらいですから、30メートルぐらいの崖上に市街地が形成されていることになります。この崖は石組みになっていて、なかなか迫力のある地形です。
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崖上の旧市街地は建物が景観配慮されていて(エアコン室外機が黒色塗装されている!)一部の通りは石畳舗装されているなど、街そのものを観光資源としていることがわかります。この街は国の重要伝統的建造物群保存地域ではなく、八尾地区景観まちづくり推進地域として守られています。観光の街なのですが、僕が歩いた観光オフシーズンの平日はとても静かな街でした。
この街は江戸時代初期に加賀藩から開町の許可を得たとの説明があります。意外と新しいというのが僕の印象です。この時期には地方間の交易が盛んになり、飛騨と越中との交易拠点として重要になってきたのでしょう。さらに養蚕や製紙も栄えたとのことで、農工商のバランスよく、江戸時代から明治期にかけて街が発展したのだと思います。いくつかの町内で構成される旧八尾市街地ですが、特異なのが崖下にある鏡町という町内。現在は大きな料亭があります。ここは明治期に遊郭が設置された場所とのこと。遊郭が置かれるということは、八尾では大きな金銭が動き、他地方との交易も盛んであったことを窺い知ることができます。
越中八尾は祭りの街。いくつかある八尾の観光スポットのうち2つが祭りに関するもの。「八尾おわら資料館」と「八尾曳山展示館」です。八尾の祭りで有名なのが「おわら風の盆」です。編笠をかぶり静かに踊りながら街を練り歩く風の盆は映像で見ているぶんにも風流で、男踊り・女踊りの構成もどこか艶めかしさを感じます。この祭りを舞台にした小説もあるくらいです。(高橋治『風の盆恋歌』) もう一つが、曳山祭り。高さ7.5mもの曳山が6基、この小さな八尾の街を練り歩きます。とても見応えがありそうです。6基の曳山のうち3基は曳山展示館で展示されていて、祭りの時期でなくてもその迫力を感じることができます。
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街の歴史や祭りを想像しながらの崖の上の街の散歩でした。

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2026.05.03

氷見・雨晴

年3月に富山を訪れた記録を何回かに分けて。

氷見は漁港の街。魚を求めて氷見漁港内にある食堂を訪ねました。平日正午前に整理券を取って50分待ちの大人気です。12時半頃には1時間半待ちくらいになっていました。待ち時間に少し市街地を散歩しましたが、中心市街地はほぼシャッター通りになっていて残念です。藤子不二雄の出身地というネームバリューも活かしきれていません。単価の高い水産物が水揚げされる場所と思っていたのですが、波及効果は郊外のショッピングセンターに行ってしまうのでしょうか。散歩から漁港に帰ってきて振り向くと、富山湾の向こうに薄っすらと立山連峰が見えました。
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ブリが終わり、白エビがまだという微妙な季節に富山に訪れてしまったため、氷見漁港で食べた海鮮丼は、イワシが中心でした。なんだイワシかと思って食べると、脂が乗っていて口の中で解れる、いままで食べたことのないようなイワシでした。氷見まで来た甲斐があった。とは言え、イワシを求めて遠方から来る人はなかなかいないでしょうね。
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氷見から富山への帰路は海岸線近くの道を選択。氷見からしばらく進むと、NHKドキュメント72時間で紹介されていた道の駅雨晴があります。山/道の駅/国道/氷見線踏切/義経岩/海岸/富山湾がぎゅっと詰まった場所です。義経岩は弁慶が大岩を持ち上げて源義経が雨宿りした伝説がある岩です。実際には能登の隆起と富山湾の沈降の端境で複雑な地質のところ、海岸侵食で花崗岩が残ったものなのでしょう。雨晴では海岸選沿いを通る気動車と立山の遠望という光景が見れることで、撮り鉄スポットになっています。訪れた日もたくさんの撮り鉄の人たちが氷見線の気動車を待っていました。
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雨晴からもなるべく海岸線近くの道路を通ります。ハイライトは富山新港をまたぐ新湊大橋。海上47mという高さを、比較的細い車道で渡ります。若干心細い感覚になります。そして正面遥かに立山連峰。桁間を走っている間は、立山連峰に飛び込む気分になりました。

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2026.04.29

高岡市街

2026年3月に富山を訪れた記録を何回かに分けて。

高岡市街地は北陸本線(あいのさと富山鉄道)高岡駅北口が商業地である御旅屋町、御旅屋町の北東に高岡城址、北西に旧市街地である山町筋、駅の南側に瑞龍寺という構成です。有名な高岡大仏は御旅屋町と城址のあいだにあります。
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加賀藩2代目の前田利長が隠居城として築城したのが高岡城。しかし高岡城はすぐに廃城になり、また越中の東半分に前田家分家が富山藩を成立させたため、高岡は政治的には微妙な場所になりました。でも加賀藩の政策により商工業の振興は継続され、町人文化により発展し続けた街です。

そういった経緯から、高岡において政治的に名を残す人物は前田利長くらい。利長の菩提寺が、駅の南側にある瑞龍寺です。高岡唯一の名だたる人物ということで、伽藍は荘厳です。平日の朝に訪れたため参拝客は少なく、キリッとした空気に支配されていました。
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城址には射水神社があります。もともとは伏木の近くの二上山にあった神社ですが、明治時代に城址に移りました。城としての機能は江戸時代初期に失われているため、堀や石垣のある城址と地上設備との違和感が何とも言えない風景を作っています。大仏は市街地に突然現れます。奈良や鎌倉の大仏はそれなりの囲われた場所にもったいぶって置かれていますが、高岡の大仏は街の中に溶け込もうとしているかのよう。訪れたときは保育園の散歩の行先になっていました。旧市街であり歴史地区である山町筋も観光資源としてのまとまりはイマイチで、繁華街としての盛り上がりも見えず、都市としてのあり方が難しくなっている地方都市に見えました。
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高岡市街地には市電が走っています。この規模(市人口17万人、DID人口9万人)の規模にしては珍しいと思います。万葉線と名付けられたこの市電の行先は伏木港(の向かい)を経由して新湊まで。外港と市街地を結ぶ路線のようです。富山と同様、高岡にとっても外港は大切な存在のようです。旧市街地近くの停留所「片原町」は道路にペイントしただけのホームで、電車待ちはかなりのスリルがありそうです。
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2026.04.19

岩瀬・伏木

2026年3月中旬に富山を訪れた記録を何回かに分けて。

富山市電の北側、日本海側の終点は岩瀬浜というところです。ここには富山港があります。近代的な地方港ですが、江戸時代は越中富山藩の外港として開発されて北前船の寄港地として発展した歴史ある街です。しかし、平日の午後に降り立った岩瀬浜駅周辺の光景は寂しく、単に地方都市の郊外でした。ぱっと見は1時間に1本程度のバスだけが来るようなバス路線の終点のような場所ですが、市電の高頻度交通が整備されているのは素晴らしいです。
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岩瀬浜駅から岩瀬運河をわたり神通川のほうに歩いていったところが、岩瀬の旧市街地。その西側の神通川(正しくは富岩運河)沿いが、富山港です。埠頭脇に展望塔があり、階段がたいへんですが登ることができます。最上階には立山連峰の姿を収めるシャッターチャンスを狙っているカップルがいました。ここからは富山市街地越しの立山連峰が見られる撮影スポットなんですね。港の方に目を移すと、車両運搬船が停泊していて、ヤードにはたくさんの乗用車が並べられています。あとで喫茶店に入った時にママに聞いた話だと、ウクライナ紛争が始まってから荷物が止まってしまっているとのこと。国際情勢が地方港で目に見える形になっています。
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越中地方で近世に岩瀬と並び栄えた港が伏木。この地は古代から越中の中心地とみなされていたのか、越中から能登を切り離した際に、越中の国府が置かれました。現在の勝興寺が国府として比定されているようです。勝興寺の門前通りに可愛らしい洋風建築があります。伏木測候所。伏木港の近代化、汽船就航で気象観測の必要性が高まり、伏木の船会社が開設したものがもとになっているとのこと。現役の観測所でありつつ、近代観測所設備の博物館にもなっています。日本の産業近代化には、このような裏で技術的に支える人々や設備が必要だったのですね。
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越中一之宮である気多大社も伏木にあります。神社に登る階段からは富山湾が一望でき、この視界を中世の人々は重宝したのでしょうか。越中国府開設初期に国司として赴任したのが大伴家持。そのおかげで万葉集には大友家持が詠んだ越中の和歌が多く収載され、伏木周辺は万葉集に詠まれたちとしての地域アピールが強く高岡市内の市電の愛称も「万葉線」となっています。岩瀬と伏木、富山県内の2つの港の歴史だけでも、かなり深いです。
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2026.04.18

富山市街地

2026年3月中旬に富山を訪れた記録を何回かに分けて。

富山市の市街地は、富山駅南口から富山城址にかけてが官庁・ビジネス街、城址南東側が繁華街という構成です。不思議なのが、やたら空間が広い富山駅北口です。駅から北口に出ると左側にホテルの入るビル、右側にはインテックなどが入るガラス貼りの高層ビル。松川に架かる橋を渡って左側は広々とした富岩運河親水公園という公園になっています。運河跡地の池に天門橋という展望塔を兼ねたシルエットが美しい橋があり、その奥が富山県立美術館となっています。
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この広い公園、実は富山市街地の西を流れる神通川の旧流路。富山市街地でけっこう大胆な河川改修工事が行われた跡地が、この環水公園です。実は北陸本線が開通したときの富山駅は原位置でありながら神通川の左岸だったのです。流路変更で富山市街地と同じ神通川右岸になりました。旧流路は概ね現在の松川。城址公園の北側から富山駅の東を回り、環水公園に至ります。富山城が、神通川の曲線流路を自然の要害として作られたという富山城の立地も理解できます。
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富山市の旧市街地は富山城址の南側から東側の一帯です。神通川の旧流路と富山城の立地を考えると、西側・北側は神通川ですから、確かに駅の南側・東側が城下町なのが自然です。このあたりの旧市街の繁華街は総曲輪という地名。平城の惣構えの街の構造に由来するのでしょうか。南側はアーケード街を有する商業地になっています。アーケード街に県内唯一の百貨店である富山大和も抱え、地方都市とは思えない賑わいを見せています。

東側は歓楽街。飲み屋などが多い様子で、無料案内所が何ヶ所かあったことから、風俗店も混ざっているのでしょう。経済集積があってお金が集まっている場所なのだと、こういうところから窺い知ることができます。コンビニに朝刊を買いに行った早朝には、どこかのビルから若者が叫んでいて、富山総曲輪に何かを求めて集まっている人がいることも感じます。
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商業地を歓楽街が交わるところには、西本願寺派・東本願寺派それぞれの大きな寺院があります。そういえば北陸は戦国時代に一向一揆の拠点となった地方。歴史の教科書で習った事柄が、現地にこうやって残っているのですね。

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2026.04.05

富山市電

2026年3月中旬に富山を訪れた記録を何回かに分けて。

北陸新幹線富山駅の改札口を出たところは駅コンコースになっています。北陸本線(あいのかぜ富山鉄道)の駅コンコースも兼ねている空間です。その駅コンコースに、市電の駅が設置されています。市電の駅前停留所は駅前ロータリーや駅前道路に設置されることが多いと思いますが、まさかの駅ナカです。北陸本線の高架化工事の際には新たなLRTのありかたとして脚光を浴びましたが、さすが脚光を浴びただけのことはあります。

市電の系統は、駅から北方向に岩瀬浜方面、駅から南方向に循環線(反時計回りの一方通行)、富山大学方面(途中まで循環線と同じ線路)、南富山方面(途中まで循環線と逆方向が同じ線路)の4系統です。循環線以外は富山駅での直通または折り返し直通とすることで、系統にバラエティを持たせています。コンコース内の線路は2線を南北(北が岩瀬浜方面、南がそれ以外)に分割した両側ホームとすることで、8ホーム構成となっています。
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富山市の中心市街地は富山駅付近から富山城址南側の総曲輪繁華街までの1km四方くらい。東京でいう山手線内側(南北9km×東西7km)に比べてもコンパクトなものです。この中心市街地を循環線が取り囲むように走ります。コンパクトなので一方通行で事足りる。そういう街の特性をうまく活用した設計になっていると思います。こうした巧みな設計のおかげか、ダイヤも高密度にも関わらず1編成あたりの乗客もそこそこ多い。古い「市電」の吊り掛け電車と、新しい「LRT」の両方の面を持った鉄道で、車両も様々なものが混在しているところも、魅力いっぱいです。
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2026.01.14

登戸研究所

明治大学の隅にひっそり立つ「登戸研究所」。陸軍の秘密研究所跡地に、徹夜明け仮眠後の午後に訪れました。
生田駅から線路海側を遊園方面に歩いたところに明治大学生田キャンパスがあります。敷地に入り坂道を登ったところに小さな神社があります。陸軍登戸研究所(第九陸軍技術研究所)が建立した弥心神社(生田神社)です。昭和18年陸軍大臣の表彰金で建立されたとか。
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明治大学生田キャンパスのいちばん右奥(南西)に登戸研究所資料館があります。ただ「登戸研究所」はこの資料館として残されている建物だけではなく明治大学生田キャンパスとなっている広大な敷地全体に広がっていて、多くの木造建築物といくつかのコンクリート製建築物からなっており、資料館となっているのはそのうち保存されている建物のひとつにすぎません。
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この建物は明治大学が入手してから長いあいだ農学部の研究棟として使用されていましたが、戦争遺構の保存の目的で登戸研究所時代の間取りを復元し展示施設に改装しています。ただ、実際にこの建物がどのように使われていたか、詳しいことがわかっていないことも多いのが事実です。行ったときは、学生さんにガイドをして頂けました。まず、最初のビデオ。登戸研究所では戦争犯罪に関わる秘密の研究がなされていたこと、ここで働く人は厳しい箝口令が敷かれていたことを教わります。
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登戸研究所のイメージは、風船爆弾。紙張りの風船に爆弾をぶら下げて太平洋に飛ばしアメリカで着弾して爆発することを目指すというもの。荒唐無稽な計画だと思っていたのですが、実際には打ち上げ10,000発中1,000発くらいがアメリカ・カナダに着弾していると言うから意外と現実的な攻撃方法だったようです。アメリカでも混乱にならないよう報道規制が敷かれたいたというから、なかなか効果があったみたいです。偏西風、ジェット気流も研究されていて、温度による高度調整装置も付いているという意外にも高性能なものでした。貼る和紙も破れにくく弾力性があるように加工された高度なものです。登戸研究所に通う女学生が厳しい労働環境のもと作りました。
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(写真は風船爆弾10分の1模型)
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展示を見ていると、登戸研究所のメインは偽札の作成だったようです。蒋介石政権が発行した共通紙幣の偽札。しかし、日本との戦争が進むにつれ極端なインフレとなり、偽札が狙った経済混乱は埋もれてしまったようです。
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何に使われたのかよくわからない、暗室。扉の他にクランク通路があり、扉を閉めるとクランク通路を確保しつつ室内が真っ暗になる構造になっています。大きな流しがあるところをみると写真現像の暗室にも思えますが、この建物そのものは生化学兵器開発の研究所だったらしいので、本当のところは何なのでしょうか。なお、写真奥のランプの意味も不明で、これは陸軍登戸研究所が付けたものか、慶應義塾が付けたものか、明治大学が付けたものかもわからないそうです。
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登戸研究所は終戦直前の疎開で長野県駒ヶ根に疎開していたそう。その駒ヶ根に保存されていたのが石井式濾水器。アルミ珪藻土を巻いた筒をカートリッジとして機械に6本取り付け回転させて濾過させるもの。機械の中心にはブラシが付いていて、珪藻土の目詰まりを掃除する機能もあります。
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最後に見せていただいたのが、通称「弾薬庫」。ただし、登戸研究所当時に何に使われていたのかはわかりません。登戸研究所は大規模施設にも関わらず証言者が少なく、こんなことですらわかっていないのです。戦争の闇の深さを感じます。この「弾薬庫」も徐々に崩落が始まっていて危険なので、見物者は中に入ることができないほど。用途がわからないまま、戦争遺構が消滅してしまいそうで残念です。
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明治大学平和教育登戸研究所資料館

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2025.12.26

勝どき橋の資料館

勝鬨橋の左岸川下流方に「勝どき橋の資料館」という小さな建物があります。昼休み、晴海の職場から歩いて訪ねてみました。この建物の裏は築地市場跡地でスタジアムの整備工事の準備が進んでいます。

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資料館の建物の中は基本的な勝鬨橋が可動橋だった時の可動設備の展示室になっています。隅田川を渡る橋だけあって橋そのものも重く、設備も大掛かりなものが必要なことがわかります。

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電気設備も、大掛かりです。

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機械設備の他は、全国の可動橋の紹介と、隅田川の橋の紹介。隅田川はそれほど長い河川ではないのですが、都心近くを流れるだけあって歴史のある橋が多く、隅田川そのものが橋の博物館のようですね。

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2025.12.23

鳩の街を歩く

吉行淳之介『原色の街』の舞台になった鳩の街(東京都墨田区東向島一丁目、向島五丁目)を会社帰りに歩いてみました。

月島から都営バス「門33」に乗り押上駅前に。京成押上線の踏切を渡って東武伊勢崎線の高架をくぐり、向島方面に向かいます。

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押上二丁目は戦後頃の街並みと新しい家が混在する東京下町の風情です。

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曳舟川通りを渡ったら、鳩の街商店街です。商店街入口にはアーチがかけられていますが、寂れている様子が際立っていて何とも言えません。

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こちらが商店街(?)の様子。

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鳩の街の一本東側が原色の街の舞台となったかつての赤線街だと思うのですが、今は住宅街で赤線の名残は見つけることができませんでした。

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鳩の街の西側を歩いて帰ると、古い街並みとスカイツリーという楽しい光景に出会えました。

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帰路は曳舟駅から。隣のホームは亀戸線、都心近くの路線にも関わらず2両編成ワンマンが出発していきます。

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