カテゴリー「散歩(徒歩)」の240件の記事

2026.04.19

岩瀬・伏木

2026年3月中旬に富山を訪れた記録を何回かに分けて。

富山市電の北側、日本海側の終点は岩瀬浜というところです。ここには富山港があります。近代的な地方港ですが、江戸時代は越中富山藩の外港として開発されて北前船の寄港地として発展した歴史ある街です。しかし、平日の午後に降り立った岩瀬浜駅周辺の光景は寂しく、単に地方都市の郊外でした。ぱっと見は1時間に1本程度のバスだけが来るようなバス路線の終点のような場所ですが、市電の高頻度交通が整備されているのは素晴らしいです。
Img_5605

岩瀬浜駅から岩瀬運河をわたり神通川のほうに歩いていったところが、岩瀬の旧市街地。その西側の神通川(正しくは富岩運河)沿いが、富山港です。埠頭脇に展望塔があり、階段がたいへんですが登ることができます。最上階には立山連峰の姿を収めるシャッターチャンスを狙っているカップルがいました。ここからは富山市街地越しの立山連峰が見られる撮影スポットなんですね。港の方に目を移すと、車両運搬船が停泊していて、ヤードにはたくさんの乗用車が並べられています。あとで喫茶店に入った時にママに聞いた話だと、ウクライナ紛争が始まってから荷物が止まってしまっているとのこと。国際情勢が地方港で目に見える形になっています。
Img_5583

越中地方で近世に岩瀬と並び栄えた港が伏木。この地は古代から越中の中心地とみなされていたのか、越中から能登を切り離した際に、越中の国府が置かれました。現在の勝興寺が国府として比定されているようです。勝興寺の門前通りに可愛らしい洋風建築があります。伏木測候所。伏木港の近代化、汽船就航で気象観測の必要性が高まり、伏木の船会社が開設したものがもとになっているとのこと。現役の観測所でありつつ、近代観測所設備の博物館にもなっています。日本の産業近代化には、このような裏で技術的に支える人々や設備が必要だったのですね。
Img_5731

越中一之宮である気多大社も伏木にあります。神社に登る階段からは富山湾が一望でき、この視界を中世の人々は重宝したのでしょうか。越中国府開設初期に国司として赴任したのが大伴家持。そのおかげで万葉集には大友家持が詠んだ越中の和歌が多く収載され、伏木周辺は万葉集に詠まれたちとしての地域アピールが強く高岡市内の市電の愛称も「万葉線」となっています。岩瀬と伏木、富山県内の2つの港の歴史だけでも、かなり深いです。
Img_5762

| | コメント (0)

2026.04.18

富山市街地

2026年3月中旬に富山を訪れた記録を何回かに分けて。

富山市の市街地は、富山駅南口から富山城址にかけてが官庁・ビジネス街、城址南東側が繁華街という構成です。不思議なのが、やたら空間が広い富山駅北口です。駅から北口に出ると左側にホテルの入るビル、右側にはインテックなどが入るガラス貼りの高層ビル。松川に架かる橋を渡って左側は広々とした富岩運河親水公園という公園になっています。運河跡地の池に天門橋という展望塔を兼ねたシルエットが美しい橋があり、その奥が富山県立美術館となっています。
Img_5539

この広い公園、実は富山市街地の西を流れる神通川の旧流路。富山市街地でけっこう大胆な河川改修工事が行われた跡地が、この環水公園です。実は北陸本線が開通したときの富山駅は原位置でありながら神通川の左岸だったのです。流路変更で富山市街地と同じ神通川右岸になりました。旧流路は概ね現在の松川。城址公園の北側から富山駅の東を回り、環水公園に至ります。富山城が、神通川の曲線流路を自然の要害として作られたという富山城の立地も理解できます。
20260405-191738
富山市の旧市街地は富山城址の南側から東側の一帯です。神通川の旧流路と富山城の立地を考えると、西側・北側は神通川ですから、確かに駅の南側・東側が城下町なのが自然です。このあたりの旧市街の繁華街は総曲輪という地名。平城の惣構えの街の構造に由来するのでしょうか。南側はアーケード街を有する商業地になっています。アーケード街に県内唯一の百貨店である富山大和も抱え、地方都市とは思えない賑わいを見せています。

東側は歓楽街。飲み屋などが多い様子で、無料案内所が何ヶ所かあったことから、風俗店も混ざっているのでしょう。経済集積があってお金が集まっている場所なのだと、こういうところから窺い知ることができます。コンビニに朝刊を買いに行った早朝には、どこかのビルから若者が叫んでいて、富山総曲輪に何かを求めて集まっている人がいることも感じます。
Img_5776
商業地を歓楽街が交わるところには、西本願寺派・東本願寺派それぞれの大きな寺院があります。そういえば北陸は戦国時代に一向一揆の拠点となった地方。歴史の教科書で習った事柄が、現地にこうやって残っているのですね。

| | コメント (0)

2026.04.05

富山市電

2026年3月中旬に富山を訪れた記録を何回かに分けて。

北陸新幹線富山駅の改札口を出たところは駅コンコースになっています。北陸本線(あいのかぜ富山鉄道)の駅コンコースも兼ねている空間です。その駅コンコースに、市電の駅が設置されています。市電の駅前停留所は駅前ロータリーや駅前道路に設置されることが多いと思いますが、まさかの駅ナカです。北陸本線の高架化工事の際には新たなLRTのありかたとして脚光を浴びましたが、さすが脚光を浴びただけのことはあります。

市電の系統は、駅から北方向に岩瀬浜方面、駅から南方向に循環線(反時計回りの一方通行)、富山大学方面(途中まで循環線と同じ線路)、南富山方面(途中まで循環線と逆方向が同じ線路)の4系統です。循環線以外は富山駅での直通または折り返し直通とすることで、系統にバラエティを持たせています。コンコース内の線路は2線を南北(北が岩瀬浜方面、南がそれ以外)に分割した両側ホームとすることで、8ホーム構成となっています。
Img_5777

富山市の中心市街地は富山駅付近から富山城址南側の総曲輪繁華街までの1km四方くらい。東京でいう山手線内側(南北9km×東西7km)に比べてもコンパクトなものです。この中心市街地を循環線が取り囲むように走ります。コンパクトなので一方通行で事足りる。そういう街の特性をうまく活用した設計になっていると思います。こうした巧みな設計のおかげか、ダイヤも高密度にも関わらず1編成あたりの乗客もそこそこ多い。古い「市電」の吊り掛け電車と、新しい「LRT」の両方の面を持った鉄道で、車両も様々なものが混在しているところも、魅力いっぱいです。
Img_5886

| | コメント (0)

2026.01.14

登戸研究所

明治大学の隅にひっそり立つ「登戸研究所」。陸軍の秘密研究所跡地に、徹夜明け仮眠後の午後に訪れました。
生田駅から線路海側を遊園方面に歩いたところに明治大学生田キャンパスがあります。敷地に入り坂道を登ったところに小さな神社があります。陸軍登戸研究所(第九陸軍技術研究所)が建立した弥心神社(生田神社)です。昭和18年陸軍大臣の表彰金で建立されたとか。
Img_5094
明治大学生田キャンパスのいちばん右奥(南西)に登戸研究所資料館があります。ただ「登戸研究所」はこの資料館として残されている建物だけではなく明治大学生田キャンパスとなっている広大な敷地全体に広がっていて、多くの木造建築物といくつかのコンクリート製建築物からなっており、資料館となっているのはそのうち保存されている建物のひとつにすぎません。
Img_5096
この建物は明治大学が入手してから長いあいだ農学部の研究棟として使用されていましたが、戦争遺構の保存の目的で登戸研究所時代の間取りを復元し展示施設に改装しています。ただ、実際にこの建物がどのように使われていたか、詳しいことがわかっていないことも多いのが事実です。行ったときは、学生さんにガイドをして頂けました。まず、最初のビデオ。登戸研究所では戦争犯罪に関わる秘密の研究がなされていたこと、ここで働く人は厳しい箝口令が敷かれていたことを教わります。
Img_5101
登戸研究所のイメージは、風船爆弾。紙張りの風船に爆弾をぶら下げて太平洋に飛ばしアメリカで着弾して爆発することを目指すというもの。荒唐無稽な計画だと思っていたのですが、実際には打ち上げ10,000発中1,000発くらいがアメリカ・カナダに着弾していると言うから意外と現実的な攻撃方法だったようです。アメリカでも混乱にならないよう報道規制が敷かれたいたというから、なかなか効果があったみたいです。偏西風、ジェット気流も研究されていて、温度による高度調整装置も付いているという意外にも高性能なものでした。貼る和紙も破れにくく弾力性があるように加工された高度なものです。登戸研究所に通う女学生が厳しい労働環境のもと作りました。
Img_5098
(写真は風船爆弾10分の1模型)
Img_5097
展示を見ていると、登戸研究所のメインは偽札の作成だったようです。蒋介石政権が発行した共通紙幣の偽札。しかし、日本との戦争が進むにつれ極端なインフレとなり、偽札が狙った経済混乱は埋もれてしまったようです。
Img_5100
何に使われたのかよくわからない、暗室。扉の他にクランク通路があり、扉を閉めるとクランク通路を確保しつつ室内が真っ暗になる構造になっています。大きな流しがあるところをみると写真現像の暗室にも思えますが、この建物そのものは生化学兵器開発の研究所だったらしいので、本当のところは何なのでしょうか。なお、写真奥のランプの意味も不明で、これは陸軍登戸研究所が付けたものか、慶應義塾が付けたものか、明治大学が付けたものかもわからないそうです。
Img_5102
登戸研究所は終戦直前の疎開で長野県駒ヶ根に疎開していたそう。その駒ヶ根に保存されていたのが石井式濾水器。アルミ珪藻土を巻いた筒をカートリッジとして機械に6本取り付け回転させて濾過させるもの。機械の中心にはブラシが付いていて、珪藻土の目詰まりを掃除する機能もあります。
Img_5103Img_5104
最後に見せていただいたのが、通称「弾薬庫」。ただし、登戸研究所当時に何に使われていたのかはわかりません。登戸研究所は大規模施設にも関わらず証言者が少なく、こんなことですらわかっていないのです。戦争の闇の深さを感じます。この「弾薬庫」も徐々に崩落が始まっていて危険なので、見物者は中に入ることができないほど。用途がわからないまま、戦争遺構が消滅してしまいそうで残念です。
Img_5105

明治大学平和教育登戸研究所資料館

| | コメント (0)

2025.12.26

勝どき橋の資料館

勝鬨橋の左岸川下流方に「勝どき橋の資料館」という小さな建物があります。昼休み、晴海の職場から歩いて訪ねてみました。この建物の裏は築地市場跡地でスタジアムの整備工事の準備が進んでいます。

Img_4933

資料館の建物の中は基本的な勝鬨橋が可動橋だった時の可動設備の展示室になっています。隅田川を渡る橋だけあって橋そのものも重く、設備も大掛かりなものが必要なことがわかります。

Img_4934

電気設備も、大掛かりです。

Img_4935

機械設備の他は、全国の可動橋の紹介と、隅田川の橋の紹介。隅田川はそれほど長い河川ではないのですが、都心近くを流れるだけあって歴史のある橋が多く、隅田川そのものが橋の博物館のようですね。

Img_4937

| | コメント (0)

2025.12.23

鳩の街を歩く

吉行淳之介『原色の街』の舞台になった鳩の街(東京都墨田区東向島一丁目、向島五丁目)を会社帰りに歩いてみました。

月島から都営バス「門33」に乗り押上駅前に。京成押上線の踏切を渡って東武伊勢崎線の高架をくぐり、向島方面に向かいます。

Img_4908

押上二丁目は戦後頃の街並みと新しい家が混在する東京下町の風情です。

Img_4909

曳舟川通りを渡ったら、鳩の街商店街です。商店街入口にはアーチがかけられていますが、寂れている様子が際立っていて何とも言えません。

Img_4910

こちらが商店街(?)の様子。

Img_4915

鳩の街の一本東側が原色の街の舞台となったかつての赤線街だと思うのですが、今は住宅街で赤線の名残は見つけることができませんでした。

Img_4914

鳩の街の西側を歩いて帰ると、古い街並みとスカイツリーという楽しい光景に出会えました。

Img_4918

帰路は曳舟駅から。隣のホームは亀戸線、都心近くの路線にも関わらず2両編成ワンマンが出発していきます。

Img_4920

| | コメント (0)

2025.12.20

東京地学協会 巡検D「河川争奪など地形地質の成因と人間の関わりを考えながら歩く」に参加した

11月中旬に、東京地学協会の巡検に参加してきました。タイトルは河川争奪、集合は王子駅です。
案内が届いて、衝撃でした。案内そのものは著作権の問題がある可能性があり、地理院地図から再現。5mごとの色別標高図です。(クリックで大きく表示できます)
Pasted-graphic

王子駅の西側の滝野川地区から上野不忍池まで、かなり大規模な渓谷が伸びていることがわかります。概ね不忍通りで、散歩コースとして有名な「谷根千」も、この谷沿いの街並みです。武蔵野台地の谷地形は基本的に河川のものなのですが、駒込付近から不忍池辺りまでの小河川である谷田川では、とてもこんなに大きな谷を形成することはできません。不忍池に向かう谷は、現在は王子駅から隅田川に直行している石神井川の、昔の流路なのです。いつの時代か(先史説と近代(江戸開幕前の太田道灌時代)説があります)王子駅付近を突っ切って、隅田川低地に直接抜けてしまったのです。この流路変更を河川争奪といいます。

そんなわけで、王子駅に。少し早めに到着したので、駅付近をぶらぶら。「お札と切手の博物館」というミニ博物館があり入館無料なので覗いてみました。1億円の札束と同じ大きさ・重さの紙束を持ち上げて楽しんだり、諸外国の切手の多様さに感心した十数分。集合場所の王子神社に向かうべく王子駅の西口に。駅前からいきなりの渓谷で驚きます。上野台地を石神井川が突っ切ってできた渓谷です。この渓谷の左岸(北側)が王子神社、右岸(南側)が飛鳥山です。

↓渓谷をまたぐ音無橋
Img_4583
なお、王子駅周辺の石神井川の本来の流路は音無渓谷なのですが、そのままだと石神井川が流量の変動が激しい都市河川にも関わらず音無渓谷は非常に狭いため洪水の危険性が高いです。現在は飛鳥山の下に放水路(飛鳥山分水路)が設けられており、音無渓谷にはほとんど水は流れていません。

↓ 昭和42年度施工 石神井川改良工事のうち飛鳥山隧道呑口工事の碑
Img_4586
石神井川の河川争奪は先史時代にせよ中世にせよ比較的新しい出来事なので現在の石神井川の水面高さでの氾濫原はまだ発達しておらず、河道だけが低い標高にある状態です。そのため、崖の作りもかなり大胆です。蛇行部分の休暇河川路が音無さくら緑地として保存されていますが、その公園の中には地層が露出した、露頭を視認することができます。

↓ 音無さくら公園の露頭
Img_4588
醸造試験所跡地公園を経て飛鳥山公園に。北区飛鳥山博物館ですが、地質のことがいろいろと。区立の博物館は近所の小学生の社会科の授業用に建てられている程度にしか思っていなかったので、地質のさまざまな展示に驚きました。武蔵野台地の東端という場所にある王子周辺は、地質学的にもいろんなことが調査できる興味深い場所なのですね。

↓ 11月中旬はイチョウは黄色くなりかけ、十月桜がちらほら咲いていました。
Img_4593
↓ 昼休み時間を使って王子駅東側の飛鳥山放水路吐口を見に行ってみました。
Img_4595
午後の部は電車を乗り継いで日暮里駅から出発です。日暮里駅付近も上野台地は痩せ尾根になっていて、すぐに谷田川に降りる崖。この階段に「夕焼けだんだん」という愛称が付けられているのですが、階段を降りる右方前方でマンション建築が始まってしまい、この階段から夕焼けを見ることはできなくなってしまいました。(この夕焼け見えないだんだんの一件は、都市計画の難しさを改めて知ることになりましたね。) 階段を降りたところの谷中銀座は、原宿竹下通りを思わせるほどの人混みでした。

↓ 夕焼けだんだんからの谷中銀座 2025.11.16
Img_4606
坂を降りきった台東区谷中と文京区千駄木の境目が谷田川の河川跡、現在は暗渠ですが道路の曲線が河道らしさを残しています。不忍通りを西にわたり、根津神社へ。根津神社は本郷台地から谷田川の谷に落ちる崖沿いにある神社です。きっと昔は湧水が豊富だったのでしょう、境内にいくつも池がありますが、現在も湧水で灌水しているのかは定かではありません。

ここからは本郷台地の散策。東京大学構内は武蔵野台地でもM2面とM3面の段丘が存在して、安田講堂はその段丘に沿って建てられているので正門側から見たときと東側から見たときで階数レベルが違います。三四郎池も段丘の崖からの湧水が溜まったもの三四郎池は流出水路が存在せず、生態系は閉じられているとことです。東大病院の横から不忍通りを東に渡って、不忍池へ。不忍池は谷田川終端なのですが、過去には南側(神田〜日比谷方面)に流出していたところ、近世に東に向かう忍川が掘削され、隅田川に放水されるようになったとのことです。
Img_4617

東京の東側での武蔵野台地の様子を探る一日。武蔵野台地、もっと勉強したいな。

| | コメント (0)

2025.12.19

コノハナきょうこさんの散歩体験「聖蹟桜ヶ丘」に参加

小田急×ainiのときにホストとして気になっていた、コノハナきょうこさん。秋が深まる11月下旬に聖蹟桜ヶ丘散歩の「体験」を企画されていることに気が付いたので、参加してみました。わざわざガイドしていただく散歩ってどうなのかと思っていましたが、参加してみると、ガイド付き散歩に見せられてしまいました。

待ち合わせは聖蹟桜ヶ丘駅前。ちょっと早く着いたので、トイレに行くことに。改札を出てしまうと意外とトイレは見つからず、OPA後継の商業施設「ヴィータ」の市役所出張所(関戸公民館)内にようやく見つけました。ヴィータ7階には就労支援事業者が運営するカフェがあるのですが、その前のスペースが北向けにガラス張りで気持ちいいスペースになっています。自習などをしている人がいました。
Img_4638
駅前で、ホスト(コノハナきょうこさん、えりままさん)と、もう1名の参加者と集合。駅前の「青春のポスト」で記念撮影をして、川崎街道を西へ、小野神社に向かいます。鳥居の向こうに高く紅葉している木々。コノハナさん、散歩の季節の選び方、最高です。(この写真の右側、明治乳業販売店もいい味を出しています。) 小野神社は府中大國魂神社の一之宮としても祀られています。くらやみ祭りでは、神輿・太鼓も出ますね。
Img_4639
一ノ宮用水などを散策。一人で歩いていると見過ごしがちですが、河床や土手の様子など、人と会話しながら見て回るといろいろ見えてくることも多いです。たっぷり下見をしているコノハナさんは、細かいところもよく観察されています。

アルティジャーノ・ジェラテリアで休憩。南多摩民ならおなじみ、百草ファームのアイスクリーム店です。気温が低い日でしたが、それでもミルクアイス、美味しいです。京王線が走っていくのを眺めながらアイスクリームのひととき。ここから小野神社に戻り、神南せせらぎ通りを歩きます。一ノ宮用水沿いを石畳のしているすてきな散歩道。この存在にも、いままで気付きませんでした。駅前に戻ってから多摩川堤防を超え、河川敷広場「せいせきカワマチ」。河川敷は空が広くて気持ちいいし、京王線がガタンガタンと走るのを眺めるのも、いい気分です。
Img_4649
川崎街道沿いのイタリアンでランチをとったあと、午後は山岳地帯へ。そう、聖蹟いろは坂方面です。その前に九頭竜広場・一ノ宮用水の大栗川との合流点などに寄るコース設定が、気が効いています。いろは坂のイチョウは黄葉のピーク。いい日に訪ねることができました。
Img_4656
耳をすませばロータリー(桜ヶ丘ラウンドアバウト)近くの喫茶店で休憩。ドーナッツとコーヒーを頂きながら「耳をすませば」の世界に浸ります。聖司と雫の「聖地」はどこかなどから始まり、他のジブリ作品の話など盛り上がります。桜ヶ丘地区の見晴らしのいい場所や、森を抜ける坂道などを通り、東寺方橋から霞ヶ関橋まで川沿いを歩いて聖蹟桜ヶ丘駅で解散でした。
Img_4677
単なる4人の散歩と言ってしまえばそれまでですが、コノハナきょうこさん、えりままさんの綿密な下見とガイドがあって、濃密な散歩を楽しめました。

| | コメント (0)

2025.10.19

日本地学協会地図講座「巡検C: 地形図を持って、河岸段丘の崖線、湧水、断層地形を観察しながら歩く」

昨年「月刊地理」で広告を見つけて狛江、城ヶ島の回に参加したものの続編。今回は矢川〜谷保の河岸段丘「青柳面」を中心に、崖線と湧水を観察する巡検でした。参加者40名、大盛況です。参加者の年齢層も中学生から80台と、相当に幅広い。

まずは今回の「青柳麺」とは?の説明。下の地図の赤丸で囲った河岸段丘の段が、青柳面です。
20251019-171243
どこかわかりにくいと思うので、同じ範囲の地図が↓です。
20251019-171414

矢川駅北口に集合。南武線の谷保駅方面を眺めると、遠くに坂道が見えます。高低差3〜4メートルくらいでしょうか。矢川駅は青柳面に、遠くに見える坂道の上は立川面で、その境目の崖に、坂道が付いています。目視で、自分たちがいるとことが青柳面だということを認識しながら、西進します。右には立川面への坂道があるなと交差点のたびに思いながら、青柳踏切まで。南武線はここから立川面に乗り上げます。ここで立川断層による青柳面のズレまで絡んで、この踏切の周辺の地形はかなり複雑です。興味ある人は↓のGoogleストリートビューから少し散歩してみてください。

踏切から崖下に歩くと、矢川に交差します。この上流方面が、矢川緑地になっています。ジメッとした緑地帯。ここは崖下の湧水が豊富な場所。園内に流れる水も、清流です。

ここから矢川を下り、いずみ大通りを南下したとことで坂道。この坂道は青柳面と沖積面の崖を下るもの。この崖沿いに、ママ下湧水があります。ここでは野菜以外を洗うのは禁止です。
Tempimage9gpcks
この崖下沿いは、田園地帯が広がっています。中央高速沿いの騒がしい場所ではありますが、水田の風景に癒やされます。ここの崖下は城下公園というかなり敷地面積の大きな公園があり、みにアスレチックなんかもありました。長いターザンロープや、ハンモックなど。こういうところ、いいな。

沖積面、青柳面、立川面を望める坂道を登って甲州街道へ。国立市役所入口交差点は青柳面にあるのですが、東進して谷保天満宮の手前で青柳面はなくなってしまいます。立川面への崖と、沖積面への崖が合流してしまいます。

今日の最終目的地は谷保天満宮。境内で湧水を探しましょうというお題です。みんな、崖下に湧水が出ることはたっぷり学習したので、崖下を探します。谷保天満宮の境内に厳島神社が祀ってあり、ここの池がすごく透明。ここが湧水ですね。
Tempimage6fygnx

梅林の場所が、ここはまだ青柳面なのでは?なんて話をしながら、巡検は終わりました。


| | コメント (0)

2025.10.10

松江旅行記(4)

8時頃、少し早めにホテルをチェックアウト。まだ観光地は営業前ですので、単に街歩き。北堀から明々庵の坂を登ります。石垣に挟まれた切通しで、なかなかの風情です。そもそも北堀が松江城築城に開削されたものということなので、築城前はきっと山中だったのでしょうね。石橋町商店街から折り返し松江城方面へ。古びた民家越しの松江城天守閣の眺めも乙なものです。 Img_4143 北堀に戻ってうろうろしていると、普門院という寺院がありました。拝観が8時からと、朝の早くから営業しています。不昧公(松平治郷)が好んだ茶室とのことで、見せてもらうことに。茶室に入ることはできませんが、茶室を望む方丈で朝のゆっくりとしたひとときを味わいます。 Img_4145 前日の居酒屋で教えてもらった、堀川めぐりに。11人(船頭さんを入れて12人)で満員の小さな船で、松江城の堀川を巡ります。船頭さんのコミカルな喋りを楽しみながら、松江城をぐるっと。ところどころ橋桁高が低いところがあり、屋根の高さが下がります。みんなでお辞儀の姿勢。テーマパークのアトラクションのようで、これも楽しみの一つです。途中、松江城撮影のベストスポットだと言われたところからの松江城です。 Img_4156 下船した後は、松江城天守閣へ。国宝5天守の一つです。(あとは、姫路城、彦根城、松本城、犬山城です。)そう言えば半年前に姫路城に登城したばかり、今年は城の年?松江城天守閣に近づいてみると、姫路城に比べてコンパクトな印象がありますが、黒板張りの天守の風格が重く感じます。近くで見るより、先ほどのお掘りくらいから離れてみたほうが迫力があるのかも。 Img_4175 天守閣の麓には、松江神社と興雲閣。興雲閣は水色の明治モダンの建物で、天皇の行幸をお迎えするために建てられたもの。(行幸は果たせませんでしたが。)2階は大広間で、テラス付き。テラスにも出ることができて、テラスに出ると高貴な人になった気分になれます。 Img_4179 歴史館へ。老中屋敷跡地に建っているとのことですが、一つの老中屋敷をそのまま転用ということではなく、複数の老中屋敷跡地にまたがって立地しているようです。ただ、規模的には当時の老中屋敷に合わせているのでしょう。堀の北側の武家屋敷とは規模が違います。 Img_4183 入り口にはレゴブロックで作った松江城。瓦がレゴのポチポチだったりするのがかえっていい。レゴでこんなことできるんだと感心してしまいます。この歴史館では江戸時代初期の松江城のロケーション選定から城下町の土地改良まで詳しく説明されています。湿地帯を治水により市街地にするなどは江戸改良と同じですね。驚いたのが、北堀はもともと亀田山という山の一部であり、開削して堀にしたとのこと。大工事です。その土を使って湿地帯だった松江城下を干拓したのだから、すごいことです。佐陀川の開削についても解説がありました。というか、島根半島を突っ切っている運河があったとは気付きませんでした。地図で見ると確かに昨日訪れた佐陀神社のところが島根半島の鞍部になっている。もうちょっと川のことをよく見とけばよかったなと後悔です。 Img_4184 小泉八雲旧邸と、小泉八雲記念館へ。小泉セツが連ドラの題材になるとのことで、松江市は市をあげて小泉八雲&セツ推しなのですが、観光客が押し寄せるという感じではなかったです。しかし、外国から来た英語教師が武家屋敷を借り、士族の娘を女中に迎えるというのはすごいですね。八雲の行動力は並外れたものなんでしょうか。時代を経て屋敷を小泉八雲の紹介に充てる根岸家の心意気にも頭が下がります。 Img_4191 ふれあい広場まで歩き、再び堀川めぐりの船に。乗船まで時間があったので地ビール「ビアへるん」を頂きました。京町で下船。地割りの間口が狭く、京都市内の町家と同じ構造。堀川めぐりの船からレトロな洋食屋が見えて気になったので、ここでランチ。カツライスという謎のメニューがあったので注文。カツカレーのカレーの代わりに、ハヤシライスがかけてある食べ物でした。米の味が優しい感じ。 Img_4223Img_4229 京橋川の向かいは日銀松江支店の跡地の金庫室をアートスペースに使っているもの。この日は野﨑千愛李という若手工芸作家の展覧会か開かれていました。激しい感情を可視化する試みの人形たち。迫力の作品たちでした。京橋川沿いにひときわ目立つ喫茶店が。唯一ここだけ、道路と堀の間なんですよね。西洋館で食後のコーヒーを飲んだばかりですが、どうしても入ってみたくて2杯目のコーヒーはここでいただきます。 Img_4225 そろそろ、松江に滞在できる時間も終わりに近づいてきました。松江駅に向かって歩きます。松江駅では瑞風が停車していました。そういう贅沢な旅にも憧れますね。瑞風で到着した旅人が、今夜松江を満喫できますように。米子行きのバスは、中海堤防道路の北側から江島に入りました。両側に湖がある光景をバスから堪能できます。そして、昨日に引き続きの江島大橋!このベタ踏みな写真をバス内から撮ることができました。 Img_4257 米子空港から羽田行き飛行機に搭乗。車窓には島根半島。松江旅行の締めくくりに相応しい機窓の光景でした。 Img_4270 20,632歩

| | コメント (0)

より以前の記事一覧